おけいこの日記

ここは、日本最底辺。

昼、夜ごはん。

昼。
くら寿司でした。
予約をしたら、すんなりと席を取れました。
次女は塾だったので、持ち帰りしました。

帰宅後、夕ご飯に牛丼を作りました。
他にもポテチや、キットカットなど、ハイカロリーなお菓子三昧でした。
牛丼は、意外と美味しかったです。


姉の幼稚園でできた、医師の嫁のママ友が、かんのむしに効くと言って、
朝鮮針のばあさんを母に紹介してくれました。
私が寝ているときに、朝鮮針のばあさんが、私の首の後ろに針を刺しました。
それ以降、私は急速に弱りました。
母が恐怖におののいた、あの飛ぶ症状がまったく消えうせ、
私は手の動きが悪くなり、その後遺症は、まだ続いています。
昼ドラで、朝鮮ドラマで王族の治療で朝鮮針が出ていますが、
あれは王族を弱らせる治療が主だったと、経験から、思っています。
父と、私と姉に、ママ友営業レディーが進める保険を
母が掛けたのはこの頃でした。
私も姉と、同じ幼稚園に入り、卒業しました。
小学校入学前に、CECIL一家が引っ越しました。
最後、トルコのおばちゃんは、また妊娠していました。
家族お揃いの、オーバーオールを着て、おっちゃんとおにいちゃんと3人、
坂を上って私の前からいなくなりました。
心理を使った、いじめをするので、
幼稚園のお兄ちゃんの群れは、一時、ボスキングでした。
医療のチーム独自の雰囲気が、子弟にもあったと記憶しています。
県族の強いお家の子どもを狙ったことで、通報されて、引っ越したようで、
引っ越し後、地域、みんな一安心だと大人が言っていたことを、私は、記憶しています。
私は、強い県族の子弟のお子さんとずっと一緒にいて、朝から夕方まで
冒険しました。
冒険に夢中で、だんだんと、お兄ちゃんの記憶と、
とんちゃんのおばちゃんの家であった記憶を
ほとんど失っていきました。
私が小学3年生の時、父が今までのこともあるし、
姉と私のために、この地区から、引っ越すと言って、
私は、違う区に引っ越すことになりました。
引っ越し後、父は、職場から家までの運転距離がしんどかったようです。
父は、相変わらず、終末は釣りに出かけて、
家に居ないことが多かったです。
父は、妙にむくみだし、いびきをかいて寝るようになったし、
妙におなかが出てきて、
わしは、ここには、そう長く住まないと言っていました。
父の妹は、当主になったことは良かったけど、
手形詐欺にあって、かなりの損失を出したようでした。
叔母は、父とは違い、ほぼ欠席なしの中卒でした。
手形に関しては、理解しにくい学力、あごと、お色気でいく人だったので、
金融業者にとっては、楽勝だったと予想できます。
父の妹に、私の元兄と、元兄の背景であるトルコの金融業者、それに父以外の親族と
法律家が付いて、資産配分が決まったようで、父は、さらに困窮してゆきました。
父が最後に存命していた昭和58年の夏休み、私は一人で水中翼船に乗り、
よん国へ渡りました。
祖母は、いとこではなく、おけいがここの跡取りだ、と言いました。
女の子だし、他にも国にいる身内の子がいるし、とおけいは思いました。
祖母と母の弟の娘と、母の弟の妻と、一緒に、スイカを食べている最中、
日航ジャンボ機が墜落したニュースがテレビでやっていました。
蚊取り線香がもくもくと煙をはいていました。
その日だったか、父と母と姉が遅れて、よん国に帰国してきました。
母の弟の妻が、よなよなおばあさんの様子がおかしい、
と父に相談していました。
すると、夜に玄関を開けて、まさの子の息子が来て、
祖母を襲う、乱暴に手を使うので、具合が悪くて辛い、
という、おぞましい出来事を話して、泣き始めました。
まさの子の手法と言えば、女性に対する人権侵害だったのです!
まさの子孫一家が王者たりえなかった理由は、
日本人らしくないやり方での支配を強要したからだと考えています。
私は、父が亡くなるこの時期辺りから、能力をかなり失い、
常人以下、常時、頭痛がして、ぼんやりとしていました。
皮膚の湿疹から、ひどいとびひに罹患し、腐りかけていました。
今、思い出すと、父の死の前兆でした。