おけいこの日記

ここは、日本最底辺。

昼、夜ごはん。

昼はカレー。夜もカレーでした。
試験中で、昼ごはんが必要でした。
夜は、茹で鳥も付けました。


父が亡くなってから、私は体調をかなり崩していた。
皮膚疾患には、23,4歳までずっと苦しんだ。
毎年、とびひに罹患し、湿疹がひどく、思春期になり、顔面に赤い膿ができた。
父には勝気があり、場が笑顔になるし、父は、健康食品を買ってきて、
私に食べさせていたから、父の支えで、なんとか、持ったからだった。
私は、小学校6年生の時の学校検診で、モアレ検査にひっかかった。
健康な児童の画像と、私のそれは違っていた。
乳幼児の時に、踏み付け被害などに遭ったためだった。
踏み付け被害に遭ったが、他の人と比べて、障害年金の案内もなく、
それ以降の検査保全指導は、母に対しては一切国と県と市からは、されなかった。
この国では、旧華族階層の虐待被害児童は、間引きとみなし、
放置されるものであった。
母は、コープでパートの時に、出会った、出入り業者の男と付き合い始めた。
母は、道案内が不明で、少しのことでも怒り出すので、
同伴で出歩く男性が必要だったことと、単に性欲がわいたからだと思う。
それには私も同伴することがあり、全額遊興費を母が支払っていた。
父の死の時、生命保険が支払われた、とほくそ笑んでいた母だった。
この金は、定期的に、よん国にわたり、母の姉や親族に援助していた。
産まれたときから、コミュニティに隷属する母。
私は今年44歳になるが、一度もこの父の残した財を使ってもらったことがない。
弟の記憶が出てきたのが、ここ最近だ。
グルグル巻きにされて、かごに入った血色が悪めの赤ちゃんをとんちゃんハウスで
姉や白いお姉ちゃんとトンちゃんと私とで見ていた。
姉がおむつをはがして、赤ちゃんのちんちんを触っていると、父が来た。
私は、赤ちゃんには触らない、けがをさせたらいけないから、と
父に言うと、父がこいつとお前を俺が絶対に守ると言った。
この弟が父の死後、どうなったのか、母は、私だけではなく、
この弟に対して、大きな罪がある。
とし叔母による国の支配が朝鮮風に言えば王世子と公主たる私の未来を奪ったのだった。
弟が無事大きくなっていることを私は願っている。


つづく~