おけいこの日記

ここは、日本最底辺。

弁当、朝食。

弁当。

朝食。


兄の母は、絵のモデルに良くなっていたそうだ。
私もおばちゃんに、絵を見せてもらったことがある。
1970年代、有名なグッズによくプリントされていた。
高級なところに勤務していたおばちゃん。
父は、名族に連なっていたので、高級なところで
サービスを受けていた。
また当時は、極楽鳥で、金持ちであった。
父のなりはひどく、作業員が腹巻を巻いて歩いているみたいだった。
ここに来る紳士でもお金に困っている人は多いと、兄の母は言っていた。
兄の母のほうはいたちで、
避妊をせずに有力な男性の子どもを受胎する作戦をたてて、
おばちゃんは、父以外に3人くらい候補を立てて、頑張っていたそうだ。
受胎の連絡をすると、結婚しようと父が飛んできたそうだった。
水商売はいいけど、顔が白すぎるから、
白は災いを産む、災いが来ると、入籍に、私の祖母と一家が猛反対した。
この兄の母とすったもんだがあり、結局入籍をして、
たかとりという場所で、二人は、小さいアパートで新生活を始めた。
しばらくして、置手紙を置いて、おばちゃんは、兄と父を残して出奔した。
父は、極楽だったので、2年程度乳飲み子だった兄を育てた。
兄が私の件で、愛情をくれない云々と言っているのを
寝ていて聞いていて、私は赤ちゃんなりに憤慨していた。
よくも言えたもんだよ。
兄は、金を全額父から巻き上げた後も、すぐに親子で我が家に出入りした。
しかし、私には近づかなかった。
そして、近所に、けいこちゃんには、絶対に近づいたらダメ、悪いことが起きる
などとおばちゃんが言いまわっていった。
兄とふうてんのおばちゃんの存在で、
私は不良子として、後々まで、根拠がない噂と決めつけで、
人生を踏みにじられるきっかけともなった。
兄が実子であったかどうかは、不明であり、
父はかっこうの子育ての話をよくぶっていた。
しかし、兄に対しては、愛情があったようで、姉のアルバムに兄のかわいい赤ちゃんの
写真が数枚忍び込んでいた。
姉は、赤ちゃんの時は二重でかわいかった、と自慢していたが、
二重の赤ちゃんは、有名トルコの子の写真だったから、
かわいくて当然だと言いたいところであったが、私は黙った。


御方様は、みちみちにみちた盃を、てておや?ちちおう(父翁)から頂きて、おーとっとっとーと音を立てながら額を打ってほうかんのふりをして、飲んだ時に、ちちおうが、ぽんと膝を叩いて、大笑いして、座のものが大笑いした。ちちおうの膝に乗せていただき、その際に、飛び切り良い縁談を探さねばという意のことを言ってもらった時が一番楽しかったそうで、よん国へ行くことが決まったときは、泣きに泣いたそうです。


とんちゃんハウスで、一番最初おもゆをもらった。
死ななかったからだ。
御方様だった、頃の記憶が残っていたのか、私は、おーとっとっと~ち音を立てながら
幇間の真似をして、食べた。
トンちゃんが大笑いした。
その時くらいから、私は、トンちゃんに気に入られた。
ハウスでは、子どもも労働者で、お姉ちゃんは大変だったみたいで、
家事よりも、私を抱っこしたほうが楽だったみたいで、
柵の中で、冷えに冷え、死にかけだった私の復活のきっかけは、
白い美人のお姉ちゃんだったことも覚えている。