おけいこの日記

ここは、日本最底辺。

昼、夜ごはん。

昼も夜も、親子丼と、みそ汁でした。

サイゼリアから食事券が2千円来ました。
子ども二人に千円ずつあげました。



おはなし


当時、次女の入園を控えていて、長女も6日から、園が始まるので、
祖母宅にいたのは、2泊だけでした。
2日に来て、4日の昼頃に帰りました。
今のように、携帯端末が発達していなかったですし、
ビデオデッキやDVDはないですし、
カルタは持ってこなかったし、子どもはまだ年少で、
遠出できるような体力はないし、登山はできないし、
とにかく、叔父が誤嚥で急死後、一週間くらいで、
国元が、どうなっているのか、状況を確認したくらいの2日間でした。
大して祖母孝行はできなかったように思います。
叔父が最後には、トイレに行くのも億劫がって、
(急な階段の昇り降りができない)
窓からしょんべんをしたと言うことと、
叔父が、大量のエロビデオを買い込んでみていたことを話題としてあげていました。
エロビデオは娯楽で、春画的なもので、普通だと思うんですけど、
しょんべんは、トイレの改修もできない何かが、裏にあった、叔父の気の毒さを
思いました。
おせち料理とお菓子等の持ち込んだ食材は、
帰国当日にほどんど無くなって、食材がなく、困りました。
祖母が手作りで、夕食に蕎麦を作ってくれました。
コンビニさえない田舎の山中で、寒いし、
布団は薄くて古いし、叔父の臭いが残っていることも
イライラの原因で、帰国中、私は、夜、一睡もできませんでした。
祖母の家には、元々、別邸があって、昭和30年ごろに、上角に移ったようです。
私には、別邸の在り処がどこか、教えてもらえなかったし、
謎だらけの親せきです。
相続をさせたい人以外に情報を与えず、権利を放棄させるのではなく、
気が付くことができないようにして、
廃していくやり方だと私は、考えています。
姉は、個人で、国に戻ってきて、伯父夫妻と親密のようでした。
考えると、血縁関係があったためでした。
姉は、顔と人柄が、伯父とそっくりで、手法も似ています。
私が結婚後しばらくは、付き合いがあったのですが、
電話中に突然電話を切られることや、不審な言動が多く、私は、
距離を置き始めました。
母から、姉は金品をもらっいたので、私は姉にとっては、敵で、
相手にすれば、おけいとは、縁を切るとやっていたと思うので、
これに関しては、客観的に見て、おけいに歩があると思います。