おけいこの日記

ここは、日本最底辺。

朝食。

残りでした。



おけいが出生したころ、みやうちは、戦後廃止論があったため、
貢物が減り、収入が減ったが、
浪費は戦前と同じくらいしていたので、火の車だった。
毎日、華やかで、パーティ三昧だった。
金銭面では、当時、国一の父が、代がわりすると、うわさが流れていた。
私の実母は、みやの工作員として、父に近づいたので、
父に対する母の愛情はなかった。
座ってできたことに気が付かなかった母は、普通に過ごしていて、
たまに父と話すために、父の部屋に来ていた。
私は、母が、パーティ後に、腹痛で、父の部屋で寝ていた時に、
月足らずで流れ出た。
赤ん坊だった私は、子宮から出て、破水していなかった。
卵膜に包まれていたので、母が私を布団の中で発見した時には、
卵が落ちていると言った。
8,9月の早産で、みやうちの一室での出産だった。
父が早朝に、電話帳で調べて助産師さんを部屋に招き入れた。
胎盤を父がごみ箱に捨てようとして、助産師さんが怒った。
私は、年始の真冬に、真っ裸で2時間、床の上に置かれて、
父母助産師の3人で観察されていた。
私は手足をバタバタさせて、怒っていた。寒かったからだ。
月足らずで生まれた子は生きることができるかどうか、を
観察してから助けることになっていると、助産師が、父母に言った。
こうやって手足を動かして、寒くないように動いているから、
この子は無事成長するよ、と助産師が言った。
私は、観察後、入浴や、体重測定などをされて、
生かされることになった。