昼、夜ごはん。
豚皿と、残りでした。
米を炊飯しました。
今日は、画像以外にも、すごい摂取カロリーです。
ついに辿り着いた、中国とロシアの国境の土地に永住することになった、
拉致被害者一行だった。
ダマンスキーの中に市庁舎として使われていて、放置されていた
建物に、住む許可を中国共産党からもらって住むことになった。
当時は、世界一周した中では、一番の気候風土の地域だった。
まぁくんは、おっちゃんが背負子を背負うのを投げ出したから、
代わりに赤ちゃんを背負って、体を痛めていた。
まぁくんは、他の拉致被害者と違い、睡眠を管理されていなかったので、
普通に成長していて、永住地にたどり着いた時には、
外見は、小学生くらいにはなっていた。
きよちゃんは、森に、散策に行ったとき、60Lの麻袋一杯のクルミを拾ってきた。
自然の豊富な食料があった。
元大学医学部附属病院医師は、シルクロード商人と売買交渉の時に、
機嫌を損ねて、商人に暴力を振るったので、
それ以降、我々拉致被害者と加害者の家族は、食べ物が手に入らなくなっていった。
隣の部屋に住む、中国人商人が買った食べ物を
きよちゃんが、分けてもらうようになった。
きよちゃんの拾ったクルミを隣室の商人と交換して、
珍しい食べ物が沢山、部屋にあった。
拉致被害者は、私は、三つ子みたいな風貌になっていた。
私の遠い親戚の双子は、そっくりだった。
一人は、人が良いところがあったが、もう片方は、はめて出し抜くところがあるので、
赤ちゃんたちの中では、この片方の子が嫌われていた。
ある日、爆撃音がして、突然、中国兵とロシア兵が小競り合いをし始めた。
1969年ダマンスキー島事件のはじまりだった。
おけいの記憶では、ダマンスキー衝突事件は1970年代だったが、
歴史では違ってる。
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