朝食。
残りでした。
父が救急車で運ばれたのが9月23日午後7時ごろだった。
母は運転免許を持っていたが、
免許取得後、十数年間、一度もハンドルを握ったことが無かったので、
姉と私は、搬送先の病院に行けなかった。
母はタクシーを使ったと思う。
深夜1時ごろ、父の弟が家に来た。
そして、病院に行った。
私は頭痛がひどく、ふらふらだったので、父の弟の誠意に対しては、
冷淡だった。
父は面会謝絶になって、人工呼吸器につながれていた。
毒にあたって、高熱を発していた。
導尿もされていた。
夕方寝ていた時とその日は同じ皮膚色だった。
私は、手を触ったり、足を触ったり、まぶたを開けたりして、
父の体を観察した。
導尿している尿が流れていなかったので、なんとなく流したりもした。
兄と他の子も面会に来たようだった。
病院の待合で一夜を過ごし、朝に叔父に送ってもらって、家に帰った。
すると父が心肺停止で、危篤だと叔父から連絡がすぐに来た。
母は、タクシーで病院に行った。
叔父がまた病院に、姉と私を送って行ってくれた。
父の弟には、父が死ぬ前後とても世話になった。
私は、ろくにお礼も言うことができず、情けない限りだ。
一度、祖母が来た時に、目を覚まして、会話をしてから、
意識が亡くなったそうだった。
心肺停止後は、もう駄目だと、祖母と母は言っていた。
私は、手を握ったりした。
25日の午後だったと思う。
父は死の国に旅立った。
爵があれば、侯だった人は、生前、制度の名残から、
沢山の困難に見舞われた。
父は、爵だったこと以外は、金払いが良い、普通の人だった。
みんなから愛されていた。
トルコのおばちゃんが、心から愛しているのは、草むらの女の子だと言っていた。
それは違うわ、おばちゃま、
前世からの絆で今世に、やってきた私が一番の父の愛妾なんだから。
龍が握る玉、それが圭子。
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