おけいこの日記

ここは、日本最底辺。

昼、夜ごはん。

味噌おでんと、昨日の残りと、米でした。
ニンニク味噌を作りました。
夜も同じ献立となります。


私たち、拉致被害児童らと、共産党系拉致加害者は、昭和49年3月初旬ごろに、
日本に帰還できた。
私の父は、まだ離宮の中の所有物件に住んでいた。
家の中には、徳島県から来た、遠い親族の女性と、その主人らが
沢山住んでいた。
共産党と、政府関係の息がかかった目付け役として、
父を24時間、親族(父にとっては、敵)が監視していた。
現天皇に反抗する逆賊に対する対応だった。
親族でも一番の敵のかたまりが、父についていた。
裁判所の判事松井修と、神戸大学医学部附属病院元医師の正臣が、おっさん
ん(父)に子どもが戻ってきた。
赤ちゃんになって戻ってきた。子どもを引き取って、
養育するように。
成長が大幅にずれていて、実年齢よりも10歳以上違ってる。
きよみの方が、年下なのに、こんなに小さくなって、
こんな珍しい例はない、義務教育を受けさせるために、
権利を保障する、おっさんの戸籍を新しく作った。
おっさん(私の父)と、今の同居人を妻にして、長女は、きよみ、
チビは、次女とした。
新しく生きなおして、心機一転、今までのことは忘れて、
更生してほしいなどと、一方的に、私の父に、松井判事が告げた。
父の遠い親戚は、全員、洗脳されていて、変に芝居がかっていた。
私は、父の従姉妹に当たる新しい母とその母親にしばらく養育されることになった。
家には、在日朝鮮人らが勝手に出入りしていた。
須磨一帯の山が消えていて、周囲は、住宅地になっていた。
私が拉致被害に遭っている時に、兵庫県が、須磨一帯の父の所有地を
地権者である父の同意なしに、削り取っていったのだった。
つづく