朝食。
豆乳スパゲッティと、ひじきでした。
きよちゃんは、ユーラシア大陸を旅行していた時は、
白人の20代女性みたいな外見だった。
日本に帰還で来た時には、きよちゃんは、20キロくらいの巨漢になっていた。
ダマンスキー島で、隣の部屋に住んでいた商人一家の肉と、
ダマンスキー島産トリュフを、たらふく堪能したからだった。
拉致被害児童らは栄養不良と、薬で、何年も成長できなかった。
きよちゃんが、「普通の人は、平和な世の中の方が、食べ物に困ることはないからさ、
あたいは違うんだよ、戦時中は、死体が道に転がっていて、食うに困ることがなかった、
だからあたいは、昔みたいな、戦乱の世になってほしいんだよ!」と言っていた。
拉致被害児童らの数は、少し減った。
元大学病院医師が朝鮮大陸で、お手伝いの女に産ませた女児と、
お手伝いの間に生まれた子をおけいの身代わりとして、私の父に引き渡す予定だった。
でも人柄が違うし、外見も違っていたので、バレバレだった。
まぁくんは、家族が見つかったから、引き取られた、ときよちゃんが言っていた。
ハンカチを手に巻いていたりえちゃんは、父上が、朝鮮出身だった。
朝鮮で地権を奪うために、日本に、元大学病院医師がりえちゃんの父上を拉致し、
日本で、皇后にあたがうために、工作員としての教育を受けさせたと、
元大学病院医師が言っていた。
りえパパは、朝鮮での身分は、リャンバンだったし、
元大学病院医師が目を付けるだけあって、
スーパーイケメンだった。
りえちゃんの父は、私が拉致される前後は、
お宮の中で、見事なジゴロになっていた。
間違えて、私の母に引き取られて行ったりえちゃんとまた再会することになったのは、
割とすぐだった。
私は、神戸地方裁判所の判事と、神戸大学医学部附属病院医師数名と、
きよちゃんが私を抱っこして、父の家を訪ねた。
日本に戻ってきたから、またけいを再養育して、と連れていかれたのだ。
この時、同じ拉致被害者の、きよみも一緒に、父の家に連れていかれた。
一応、みいとこ、かもう一つ遠い位の血縁関係がわたしときよみにはあった、からだ。
きよみの実母のハーフの人が、大げさに芝居を打ち始めた。
妓生の子だけあって、芝居を打つのがこのおばさんのいつもの手口だった。
きよみが、あっちでは、こいつに、いじめられた、こいつは、悪いやつ!
と言った。
悪い子で悪い子でと、きよみの母親が大げさに大声で部屋の中で、話した。
この悪童が!お前が悪いんだぞ!と神戸大学医学部附属病院医師が言った。
この神戸大学医学部附属病院医師は、まりこちゃんの腕の手術の
チームの一員だった。
共産党独自の話し方と、言いがかりをつけて、周囲に確定的な話を自信満々で
するのが、兵庫のあかの手口で、正臣という医師も、私が帰国後位に、
一度医師免許を失っている。
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