おけいこの日記

ここは、日本最底辺。

昼、夜ごはん。

タラの酢漬けと、残りと、米でした。
夜の献立も同じになります。



大学病院元医師の3人の子供が、中国では幅を利かせていた。
拉致被害児童らは、諦めの境地の人柄だった。
何もしなければ、何もされないっていう手法で生き抜いた精鋭たちだった。
プリンセスベッドで寝る順番で、女の子たちは、ヒートアップしていた。
りえちゃんの一人は、元大学病院医師が、超お気に入りだったので、
プリンセスベッドで、しばしば寝ていた。
日本に帰還する迎えが来る前時期は、朝鮮語は読み書き話しと、中国語は
聞き取りができるくらいになっていた。
私は、きよちゃんらと、日本に帰る船に乗船した。
テープを陸とつないで、いつまでもいつまでも陸に手を振った。
船室の中で、元大学病院医師が、拉致被害児童らに注射を打った。
私は、いつ日本に帰国したのかは、分からなかった。
気が付くと、かごに入れられていた。
日本の、関西地方にあるアパートの一室に拉致被害児童らは、集められていた。
拉致被害児童らは、新生児くらいの大きさに若返っていた。
りえちゃんが、私があげたハンカチを手に巻いて、隣のかごに入って寝ていた。
戦友のりえちゃん。
アパートの玄関に、高い洋服を着た、私の実の母と、
母の乳兄弟が、大号泣して、立っていた。
母の肩を太郎が抱いて立っていた。
母は、老けていた。
私を出産した時には、中学生ぐらいのお姉ちゃんだった。
玄関先にいるのは、お局OLといった面相の女だった。
今度こそ、育てます、と言って、フランス製のハンカチを手に巻いたりえちゃんを
母は連れ帰った。
私は、他の拉致被害児童らとアパートに残された。